幸せであればそれでいい

自分の幸せを見つけるためのエビデンスと模索の旅

愛する人の「認知が変わっている」とき(masuken)

愛するあなたに「障害」があったら

 

愛するあなたが「車イス」がなければ生活できなかったら、

私は喜んで「車イス」を彼女のために押すでしょう

 

愛するあなたが「目」が見えなかったら

私は喜んで、彼女の「目」になるでしょう。

 

愛するあなたに「吃音」があったら

私は喜んで、彼女の語る言葉をゆっくり聞いてあげるでしょう。

 

 

愛するあなたの「認知が変わって」いたら

私は・・・喜んで・・・いられない?

 

 

あなたは、たぶん、普通の人に比べて「認知が変わっている」。

だから「認知の変わっている」あなたは、普通のことが普通にはできない。

 

家事だって、仕事だって、一歩進んで二歩下がる。

それは私にとって、大きなストレス。

 

 

あなたは、たぶん、普通の人に比べて「認知が変わっている」。

だから「認知の変わっている」あなたは、私の気付いてほしいことに気付いてはくれない。

子どもの気持ちにも向き合えない

それは私にとって、大きなフラストレーション。

 

 

あなたは、たぶん、普通の人に比べて「認知が変わっている」。

だから「認知の変わっている」あなたは、私に敵意を向けてくることもある。

子どもたちは、あなたの機嫌を損ねないように行動している。

それは私にとって、大きなパニック。

 

 

 

私たちの多くは、お互いを「幸せにする」と誓いあいます。

少なくとも結婚の儀式ではそう言います。

 

 

愛する人を「幸せ」にすること。

「認知の変わっている」あなたを幸せにすること。

 

 

「認知の変わっているあなた」は、私のできないことができます。

 

「認知の変わっているあなた」は、私が考えつかないことを考えつくことがあります。

 

「認知の変わっているあなた」は、私が通過するところで立ち止まって、安全確認することができます。

 

 

あなたと私の「愛」は、普通の「愛」ではないのかもしれない。

 

 

けれども、二人にしかわからない「愛」なのだと思えたら。

 

 

「認知の変わっている」あなたを幸せにすること。

 

あなたよりも、わたしが「幸せ」になってやる!

くらいの気持ちが必要なのかも。